長浜・株式会社黒壁(1988年〜)
黒壁ガラス館を中心に賑わう滋賀県長浜市。歴史的な町並みを活かして、ガラス館を核に、魅力的な店舗を運営しているのは、町の人々が経営するまちづくり会社・株式会社黒壁。1988年4月に設立され、その後各地で設立される街づくり会社の先駆となった。まさにクリエイティブタウンのモデルだ。
■湖北の中心・長浜
長浜は、湖北にたたずむ美しい都市である。古い町は、東西400m、南北1200mの長方形で、碁盤目状に割られ、町家が並ぶ。長浜に豊臣秀吉が城を築いたのは1575(天正3)年。ただし、江戸時代に入ってからは彦根藩領となり、純然たる商工都市として栄えた。また浄土真宗の古刹・大通寺があり、今でもたくさんの参拝客が訪れる。長浜は門前町でもあった。
江戸時代の主要な街道は、琵琶湖に沿った北国街道で、まちなかの琵琶湖よりを南北に貫通する。この北国街道と内陸部へ向かう街道とが交差するところは「札の辻」と呼ばれる。この辻の東北角に、1900(明治33)年に第百三十銀行長浜支店として建てられ、「黒壁」の愛称で親しまれてきた建物があった。1906(明治38)年には名古屋に本拠を置く明治銀行長浜支店となり、1931(昭和6)年に同行が倒産した後は、紡績会社の配送所、煙草専売公社の営業所などを経て、1954年からは壁を白く塗り替え長浜キリスト教会として使われてきた。
■株式会社・黒壁
1987年、長浜キリスト教会が移転、売りに出された。取り壊され、マンションになるのではないかと心配した地元の人びとは、署名を集め、買い取って資料館にして欲しいと市役所に申し出た。対応したのは、当時商工観光課長をしていた三山元暎さん。三山さんは、市役所が資料館をつくっても町の活性化につながらないと判断、同世代のまちづくりの研究仲間に呼びかけた。呼びかけられたのは、繊維卸、倉庫会社、建設会社、製造業などを営む経営者たちである。彼らは資金を出しあって、土地と建物を買い取り、運営する会社を設立することを決めた。まず、市内の企業8社が9000万円を出資を決め、長浜市に呼びかけて4000万円の出資をあおぎ、合計1億3000万円の資本金で株式会社・黒壁が設立された。「市が単独で購入したら1億円いるぞ、会社への出資なら半分以下で済むぞ」が長浜市へ出資を求める殺し文句であった。
リンク 1:NHK地域づくりアーカイブスhttp://www.nhk.or.jp/chiiki/movie/?das_id=D0015010060_00000
しかし会社を設立する前にも、設立して土地と建物を買い取ったあとも、この建物で何を行うかがすぐには決まらなかったという。結果から言うと、ガラスを扱うことを決め、古い建物を活かして施設を整備、ヨーロッパへのガラス買い付けを敢行して、大成功をおさめるのであるが、この間の奮闘記は、半ば神話化されて黒壁のホームページにも載っていたが、リニューアルされ今はないので、一部を引用しておこう:
街のランドマーク的な建物が取り壊されると聞き、当時の市役所職員が危機感を持って市内の財界人に相談を持ちかけた。そして青年会議所のOBを中心に、この建物の保存を目論むべくメンバーが集められたのである。集まった者たちは貸しビル業や、ホテル業、金属加工業、建設業、倉庫業など、様々な業種の、いわゆる企業家であった。その為、建物の保存には何か事業を展開しようと考えていたが、なかなか良いものが思い浮かばないまま、昭和63年4月1日に長浜市との第三セクター、株式会社黒壁が設立され、4月20日には第一回の役員会が開かれた。その日も大きな進展はなかったが、日曜日ということもあり役員達は旧黒 壁の建物の前で通行人調査を行い落胆した。何と日 曜日の午後にもかかわらす 一時間に「ひと四人と犬一匹」しか通らなかったのである。ここまで衰退した市街地を見て、移動はショックを隠しきれなかった。
■郊外への拡大
「ひと四人と犬一匹」は1988年のことである。長浜は湖北を商圏とする、滋賀県下では常に小売吸引率が一位の地域中心都市である。しかしその売り上げはすっかり郊外に移動していた。
もともと、まちなかには、西友、平和堂、共同店舗パウワースと3つも商業ビルがあり、とても賑わっていた。しかし、図に見る通り、内陸へ向かって次々と幹線道路が建設され、市街地が拡大していった。特に1967年のバイパス沿いはロードサードショップの草刈り場となった。極め付けは1988年3月オープンの長浜楽市。この出店をめぐっては、1979年9月にいわゆる三条届け出が行われてから、地元商業者とのネゴシーションが続き、西友を核にそれを取り囲むように地元商業者も一緒に出店する「長浜方式」がとられたことで知られる。当時、大阪で生活遊園地・つかしんを成功させた西友は、新しいタイプのショッピングセンターをめざして、地域の商業者との協働に積極的に取り組んだのであった。実際、ミニつかしんとも言える長浜楽市は、ランの温室や最新のシューティングゲーム、病院その他をそろえ、かなりまぶしい存在であった。「ひと四人と犬一匹」は、そのオープン直後のことである。
■黒壁ガラス館
結局、買い取った敷地内には、黒壁土蔵づくりの本館(黒壁ガラス館、1号館)のほか、裏の土蔵をガラスの食器を使った本格的なフランス料理レストラン(ビストロ・ミュルノワール、2号館、現3号館イタリア料理店オステリアベリータ)にし、ほかにガラスの工房(スタジオクロカベ、3号館、現2号館)、公衆便所(4号館、現在番号なし)、そしてポケットパークが整備された。オープンは1988年7月。オープン後、ガラス館の売上げは、1989年(9ヵ月)の1億2300万円をスタートに、毎年7000万円づつ増やし、10年後の1998年には8億7700万円を達成した。一時間に「ひと四人と犬一匹」しか通らなかった札の辻に賑わいが蘇った。
■長浜の3ポイント
以上のサクセスストーリから、図らずも3ポイントアプローチが実践されていたことが読み取れる。歴史的な建物を保全しそれを活かしていくという[デザイン]。株式会社黒壁というまちづくり会社がディベロッパーになっていくという[スキーム]。[ビジネス]は、ガラス工芸という、歴史的な中にもハイカラが光る長浜の町並みにピッタリの魅力的な商品を言い当てた。
もちろん、これらは偶然の産物ではない。[デザイン]については、1984年に市民がコンサルタントに頼らずつくった「博物館都市構想」があった。テーマは「伝統を現代にいかし、美しく住む」。長浜の町を博物館に見立て、歴史的資源を磨き上げ・活かしてまちづくりを進めようという構想である。
[スキーム]については、事あるごとに市民が資金を出しあい、問題を乗り越える「伝統」があった。古くは、市政40周年の1983年に、市民が4億3000万円に及ぶ寄付を集めて長浜城を再建した実績があり、大通寺門前の表参道商店街を整備したとき、どうしても空き店になる建物を、地元の商店街振興組合のほかに、観光物産協会、観光協会、料理飲食(協)などが資金を出し合い、観光物産センター「お花館」としてオープンさせた(1987年)。この表参道整備は、それまでに検討して来た、道を広げ高いビルに建て替えて再開発するという計画を転換し、古くなったアーケードを各戸ごとの伝統的な深い庇に変えて古い町並みを再現するという[デザイン]で実施された。長浜の「会社」の一覧表を文末に掲載する。
ガラスを言い当てた[ビジネス]にも前史がある。まず、季節にあわせて調度を変えていく町家暮らしの伝統があり、1987年には、アートイベントの走りとも言うべき、長浜芸術版楽市楽座(アートインナガハマ)を開始している。作品を中心市街地の店舗のウインドウなどに飾って、通りをギャラリーにする「ギャラリーシティ楽座」も今では伝統になっている。
アーカイブス 1:長浜デザインコード(案)
■黒壁スクエアへ
長浜の町づくりのポイントは、歴史的な建物を活用したプロジェクトが、黒壁にとどまらなかったことだ。その後も、歴史的な建物を買ったり、借りたりして、場合によっては空地に新築して事業を展開していった。いくつか例を示そう:
ガラス館オープンから2年後の1990年。黒壁7号館として古美術・西川が、8号館として郷土料理・翼果楼がオープンした。いずれも、市内の別の場所で店舗を持っている人がここにも店舗を開いたものである。今見ると両方とも古い建物に見えるが、実は7号館の方は新築である。ここで、株式会社黒壁は次のように行動した:
①まず、空き店舗と空き地になっていたこの土地と建物を購入、古い建物は修復し、空き地には隣家と調和する建物を新築
②次にここでお店を構えてほしい人を探しその人へ売却
③新しい店主になった人は、黒壁のプロデュースのもと建物を整備し店を開いた
もうひとつの例は、黒壁10号館。ガラス鑑賞館としてオープンし、2004年10月に「黒壁美術館」と名前を変え、本格的にガラス文化の調査・研究、教育普及活動を行う拠点となった(現在は■■)。所有者がほかの土地へ転出し使われなくなっていた伝統町家で、すでに倉庫として借家していた建物を買い取った。デパートなどが併設する美術館などに相当、それじたいでは収益を期待できない。しかし、必要な施設であることも間違いない。そこで、資金は、増資でまかなった。若手の意欲的な経営者がいる会社を選び、一口500万円を原則に、38社4名から計2億円、市から1億円の追加出資をあおいだ。金融にかかわる経費が不要な資金を、いわば町づくり運動の一環として集め実現した。
株式会社黒壁の行動はまさに不動産ディベロッパーそのものである。ただし、北国街道の歴史的資源をいかしながら、町づくりにふさわしい業種を導入していくという、意志と哲学のもとで行動している。このようなディベロップメント活動は、それこそ町の再生に責任を持とうとする市民が主体にならなければできない。まさに町づくり会社が必要になる理由がここにある。
■参考文献
*長浜地域商業近代化策定委員会『長浜地域,商業近代化地域計画策定作業報告』1992. 3
*長浜商工会議所『長浜TMO事業構想:中小小売商業高度化事業構想』1998. 12
*福川裕一(2005)「長浜・黒壁から町づくり会社を考える」『中心市街地活性化とまちづくり会社』(日本建築学会編・まちづくり教科書第9巻,丸善,2005. 9. 25)